Mari Matsuno の日記

神戸とパリ在住の画家、松野真理のブログです。

疲れた

福井からのお土産サツマイモ味がおいしかった。お餅は、福井の親戚のおばあさんが作ったといってくださった。私は、大好きだけど、今はやめてるので少し、パリへもっていきあとは、冷凍しておこう。値がよくなったら少しずつ食べよう。


さすがに2日続いてジュリーに行くと疲れた。大阪続けないで少し空けてしてくれたらいいのに。朝起きるのがしんどかった。もっと早くに目は、覚めていて阪神の大震災の黙とうはテレビで見てした。
20年経つのだ。まだ私も若かった。
この20年は大きい。
体は、どんどん衰えていった。
あの日の朝、灘区の我が家もすごい衝撃だった。でも家は壊れなかった。これはすごくありがたいことで、1km南は、崩れ、JRは、高架ごとひっくり返っていた。我が家は山の上だから屋上からあっちこっちで煙が上がってるのが見えた。
我が家の南側の神戸大は自衛隊の駐屯地になった。
灘北通のいとこのうちは全壊して埋もれてしまって幸い助け出された。3人とも。あの時ボロッちい家だったから助かったと思う。梁のすごい家ならダメだった。それと警察のすぐ前だったから。だからか、復興住宅は、安物のプレハブが多くなった。
反対に長田は、ごちゃごちゃした家が多くて人情味があったのに、みんな燃えてしまったから、区画整理されて鉄筋の冷たい大きな建物が立って、あまり人が、入ってなかった。すごい行政の失敗だと思う。
お水はひと月くらいなかった。ガスは3か月はなかった。
電気と石油コンロで食事を作った。今はないけどあの当時の石油コンロは便利だった。
水は1か月でなかった。お風呂に入りに母の支店、北区の店(2階は住居用になっていてお風呂も台所もトイレもあったし部屋も3つあったけど、だれも住んでなかった。家の壊れたいとこ一家がそれから2年くらい住んだ、母もいいところある)に通った。トンネル超えるのが嫌だったけど、水もたっぷり汲んで車で通った。新神戸駅横のオリエンタルホテルに泊まったこともあった。お風呂に入るために。あそこはお風呂にはいれた。
水洗トイレのために川に水汲みに行った。
幸い身近な人がなくならなかったからすごく恵まれていた。家はなくなってしまった親戚や友人はたくさんいた。
わがアトリエは簡易宿泊所みたいだった。
テレビで息子とか親とか亡くなった人が映ってた。つらいことだ。「20年ずっと思ってきた」という言葉が重い。
人間の生は、大変だ。いつか死ななくてはならないということを抱えてそれでも愛してる人が途中で亡くなったり病気したり。神様は何を狙ってる!?

お昼にすごい風でみぞれが降って母は、怖いからと帰っていった。なんでも怖い怖いというので私は、どなった。
30分もすれば、日が差したのだから。
昔は怖いものなんてなかったでしょう!って叫びたくなるほど母が怖がりで情けなくなってる。
私が、たった3週間だけどパリに行くということがすごくつらいのだ。「まりちゃんとずっと一緒にいたい」っていう。
4週間を3週間にしたのに。
わたしに甲斐性がないからそばにいるのだよ、普通の人は、こうはいかないよっていうんだけど。