Mari Matsuno の日記

神戸とパリ在住の画家、松野真理のブログです。

最終日

個展の最終日でした。
横浜に住んでる薬大の友人が来てくれたのは、うれしい驚きでした。
全体的に学生時代の友人が沢山来てくれてありがたいものだと思いました。年取ってから友人はなかなかできませんから。

今回の展覧会は回顧展のようなものでしたが広い場所で気持ちのよい展覧会ができました。ただ母が異常に私の面倒を見たがったので困りました。企画してくれてる人が「先生」とか言うのもいやだけど母が会場にいっぱい人がいるのに「まりちゃん」って大声で呼ぶのもいやでした。いくら自立できてない娘と言っても会場では主なんだから。

今回の展覧会に文章を書いてくれた京都市立芸大の日本画の友人の文章をパネルにして貼ったのですが彼女は企画以外でしたこと無くて伊勢丹高島屋、や大丸などですごく活躍してるけど企画は自分勝手なことができないから60歳のときに私のように勝手な展覧会をしたいから(なんとリーガ・ロイヤルホテル)そのときにお返しに書いてくれという。私が30年も好き勝手な展覧会をして好きに絵を描いてきて幸せだというが彼女は、画集も何冊か出しNHKホールの緞帳のデザインや大きなホテルに沢山絵を入れてデパートでものすごく大きな展覧会をしてきたいわゆる勝ち組にいわれても変な感じ。
写真は1978年には3回生の時初めて独立展に出した2枚の絵。右は彼女がモデルになってくれた。

次の文は彼女の書いてくれたもの。
「松野真理は、まことに希有な画家である。人物を描く画家というのは、普通は裸婦も描くが肖像画も描くし、自画像も描く。しかし彼女は99%が裸婦像で、題名に人物名を付けたものがほとんど無いようである。誰かの人格というものがそこには存在しないのである。通常は誰かの人格を表現しようと思って人物像を描くケースが多い。だが彼女の場合は全く違う。彼女は同じモデルを使い続けずに、まるで服を取り替えるように次々と違う裸婦を描きたい、といつも言っている。また、女性の画家が30年間裸婦像ばかりを描くというのも前例がないはずだ。

なぜか?いつも不思議であった。
京都芸大に入って以来の友人としてこの30年間を振り返り、彼女の作品を思い返してみた。彼女の裸婦とは一体彼女にとって何なのか。そしてある一つの結論に至った。裸婦像こそが彼女の自画像ではないのか、と。
自分自身を愛するという事は一見、たやすそうに見えるが、実はこれがなかなか難しい。そして、自分自身が本当は何を望んでいるか、何が好きかという事はその自己愛の延長線上に存在するものである。彼女は自己愛の構図を見事に具現している。
彼女の絵画は、彼女の生活や感性の中から、まっすぐに表現されているものなのだ。もし観る側が彼女の感じたことをその作品から100%感じとることができるのだとしたら、その作品はまさに芸術作品であると言っても過言ではない。彼女の生き方、彼女の絵画の魅力はきっとそういうところにあるのだと私は考えている。山崎恵水」